日々の出来事とか聖書とか

アカウンタビリティ

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友達を指して信仰を高め合える友になれているかというより、 自分がそうであるかというのを考えました。

僕は結構甘いって言われる人なんでよっぽどのことがない限り人の良くないところをはっきり指摘するということができなくて。。(特に妻には)
甘く接し過ぎてもその人にとってよくないのはわかるんですが、
話を聞いて自分にも当てはまるところがあって飲み込んじゃったり、
喧嘩したりして関係性が拗れるのを恐れているところがあります。

愛する者が傷つけるのは、まことからであり、
あだの口づけするのは偽りからである。

特にクリスチャンにおいてこういったのをアカウンタビリティってよく聞きます。 www.logos-ministries.org

親しい人にこそ勇気を持って良くないよって言える人でありたいです。

自分中心の生活

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お父さんのやり方に100%肯定はできないけど、 困った時に神様の御心を考える、委ねるという生活は理想なんです。

でもなかなかできないんですよね〜 自分中心で判断して何度も失敗して、苦しくなってやっとすがる自分がいます。

人の話が頭に入らない

んですよね〜困ったことに

 

まず理解できてないなら聞いて咀嚼できますしメールなら文章で残るので何度も読み返せるし返信で質問できるんですけど、聞いてその場で理解できてるつもりで後で一人になって実はそうでもなかったみたいなのが困っちゃいます。

 

みんなどうしてるんだろう。。。

宗教2世になる(であろう)子への関わり方を考えてみる

僕が通っている教会は所謂の福音主義の教会で昨今問題になっているアレとは違う教会なのですが、
アレによって今まで内々で燻っていて再燃した2世問題は他の伝統的な教派、宗教も向き合わなければいけない問題だと思ってて。

宗教を意識した人には理解され難いかもしれないけど宗教って遊びでなくその人の世界観そのものだから、
簡単に2世への布教をやめろといわれてはいやめますなんてなりにくいと思うんです。

なんてったってキリスト教というものは終わりの日があって、それまでにイエスキリストを救い主として認めないならば地獄に落ちるべさといわれる訳で、自分の家族が地獄に落ちるなんて嫌じゃないですか。
(一部のグループではなんやかんやで非信者もみんな救われると考えるそうですが、概ね多数派は上記の終末論が主流だと思います)

なので小さいうちに宗教教育をするというのはある意味自然な考えではあると思うんです。世間から理解されることはないと思いますけど。
ただ、クリスチャン(とか他宗教の信者)の世界が当たり前という押し付けをしてしまうのではくやりようはあるだろなとは思います。

洗礼によって救われる考えだったら別ですが
(洗礼したらクリスチャンなので意思決定できない子供を洗礼してその道を歩かせようとかありそう...)、
僕の通っている教会はそうではないので自分ができることはそれとなく導くサポート位なのかなと思います。
ガッツリ一緒に聖書を読むことを強制するというよりは日々の振る舞い(祈ること、聖書読むこと...etc)を見て自分がどっちの道がいいのか決めてもらう。
信仰を持ちたいなら当然喜んで、そうでないならイエスキリストの存在に気づいてもらえる様に導いてもらえるよう祈るみたいな。
今度クリスチャンの子育て本的なの読んでみよう。。。

月曜日がしんどい


月曜日に感謝して | デイリーブレッド公式サイト

 

最近月曜日がしんどいです。ブルーマンデーってやつだなと思います。

社交的な人間でないのでコミュニケーションが得意でないんですが月曜ってミーティングが集中しがちでそれも嫌なんすよね~

特に進捗が停滞してるときは詰められるんじゃないかって怯えてます笑

 

デボーション(聖書読んだり祈ったりして神様と向き合う時間)の際は聖書通読と一緒にデイリーブレッドというアプリを読んでそこから考え事をしたりします。

 

今日はまさに月曜がしんどい僕向けの内容でした。

いや、別に月曜日がしんどいことを聖書の中で語ってる訳ではなく日々の苦労や積み重ねたものが無駄になってしまうのではという虚無感と人生の当たり前と思ってる事にも神様の働きがあること綴っているという具合です。

 

日々の生活の中に神様の助けを感じられるか。苦しいときって視野が狭くなりがちで中々そうもいかないですが、一呼吸置いて祈って神様にすがるのも良いのかもしれないですね。

エス様は常に心強い味方で有ることをおぼえておきたいです。