日々の出来事とか聖書とか

僕はまだ神様のことを知らない

映画のタイトルみたいですね笑

 

聖書は新約旧約を通して神様、そしてイエスキリストを証する唯一の本と僕は信じてますが、

中心軸が神様と人間の故か「この時ってどうなるの?」って思う時がしばしばあります。

例えば「生まれたてで亡くなっちゃった赤ちゃんは地獄に落ちてまうん?」とか、「動物は死んだらどうなるの?」とかは僕が質問されたら困っちゃいますね笑

例えばそれに対して聖書の中の御言葉を持ってきて「信じてないんだから地獄へ行くのは当たり前」とか「人間だけ特別だから動物の魂は消滅する」とかバッサリ斬るのは聞いた人は絶対クリスチャンになりたいなんて思わないと思いますし、神様を人の理解の中の有限な存在にしてしまうように思います。

逆も然りで聖書を文脈なしで好きに解釈して「だ〜いじょうぶ!神様は愛ある方だから信仰持たない人間でもなんでもなんやかんや救われるよ!」というのもまた、「なら別にクリスチャンにならずに罪まみれな人生を送ってもええやんけ」となると思います。そしてそれもまた自分の中の神様像の神様に過ぎないと思います(聖書では神様が罪へ厳しいことを示す箇所もあったりします。それもまた罪深い人間への愛だと思んでないがしろにしてはいけないのではと思うんですが...)

 

僕が仮に上の質問おみまいされたら「う〜ん。。聖書にはこれこれこう書いてあるっぽくて諸説あるけどはっきりしないことは結局全部神様の次第、だからわがんね!」って逃げちゃうのかなと思います

 

まず僕が聖書そのものを神学に詳しい牧師先生ばりに深く読んで詳しいわけじゃないのでいい加減なこと言う度胸はないですし、色々な角度の神様観があるのでズバリこれと言わないようにするかなと思います。

あとは主流の解釈だと精神的に辛い時は神様は有限でない方であり、自分に良きようにしてくださる方であると自分に言い聞かせてる部分もあるのかもしれませんね〜

ただ当然自分はこう思うというのは言うときありますし、誰かが良くないことしててそれをクリスチャンとして良くないと指摘することは勇気を持って言うべきだと思います。

 

書いててクリスチャンとしてまだまだだなと思いますが(ゴールなんてないと思いますが...)こう解釈することに自分の理解を超えた神様の存在の認識があるのかなと思います。